インスタ映えの反意語は?

わたしは、人苦手なさみしがりやです。

 

基本的には刺激が苦手で、新しい人間関係やそれをとりまく環境に飛び込むよりも、旧知の友人や家族とぬくぬく過ごしていけたらそれでいいかなあ、と考えている質です。

ひとりで、本を読んだりお気に入りの場所にふらっとでかけたりするのも好きで、一人旅において大事なのは、行先ではなく、周りに知っている人がいない場所で、誰にも干渉されずに好きなように過ごすことだと思っています。

 

でも、一人でいる時間が長くなると、だんだんだんだんさみしくなってきます。

旅行で一番好きな瞬間は、と聞かれると、実家の最寄り駅の改札を見たとき、と答えるぐらいには、「帰る」という行為が好きです。それも、寮の部屋に帰るのではなく、家族が待っている家に帰ることに、安堵感と、それに伴う何とも言えない幸せを感じます。

人付き合いをめんどくさがっているけれど、やっぱり、心を許せる人のところに「帰って」いきたいなあという気持ちはあるんですね。

 

人付き合いや人間関係は、最小限でいいかなあ、なんて思っているめんどくさがり屋で、ひとりの時間も大事にしたいなあ、って考えているくせに、気のおけない人がいなくなると人恋しくなる。

周りの人からしたら、「どっちやねん!」っていう感じですよね。

 

実は、自分の中には結構明確な基準があって、わたしが苦手とする人間関係は、インスタグラムのような関係です。

 

インスタ映え」。「盛れる」。

青い顔に、無理してきれいに化粧して、着飾って。でも、隠し切れないなにかがうっすら見えているような、そんな関係。

 

たぶん、いままでわたしが築いてきて、今は居心地が良いと思えている人間関係も、インスタグラムのような関係からスタートしてきたんだろうとは思うけれど、やっぱり苦手です。

 

いつ、どの瞬間から「インスタ映え」なんか気にせずに、「盛」らずに話せるようになったのかなんて覚えていません。

たぶんそれは、ごてごてに着飾った格好から、一気にすっぴんパジャマになったんじゃなくて、徐々に手を抜いたり、化粧を薄くしたりしながら、お互いに慣れていったからなんでしょうけれど。

 

そうやって、外側の飾りをとって、「インスタ映え」でない人間関係を築いていくことにおっくうさはあるけれど、でも、重要なことなんだなあと感じるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

表示と安心感

見知らぬ土地に一人で来て、地図とにらめっこしながら必死に自分がどこにいるか確認しているとき、わたしはとてつもなくさみしくなります。

スマホの画面上に示される位置情報を見れば、自分の居場所なんて簡単に確認できるけれど、それが実体のない架空の場所のような気がして、不安で不安でしょうがない。ほんとに、この青い点が示す場所に自分はいるんだろうか、と疑ってしまいます。

 

そんな時に、自分になじみのある地名を見ると、なんだかほっとします。

 

海外の空港で、KIXという表示を見たとき。

海外の本屋で、日本のガイドブックに奈良公園の鹿の写真を見たとき。

秋田のスーパーで、大阪産のぶどうを見たとき。

東京のバス停で、実家の近くにとまる夜行バスを見つけたとき。

実家の最寄り駅行の電車を見つけたとき。

高速道路で自分が下りるインターの表示を見たとき。

 

自分が今いる、このよく知らない場所も、自分になじみのある場所とつながりがあって、元居た場所に帰れるような、そんな気にさせてくれます。

 

ヘリウムを入れた風船みたいにふわふわ飛んで行って、どこかでパチン!って割れてしまうんじゃないか、という恐怖が薄れて、自分が今いる場所は、自分が元居た場所の先にある、という連続性を感じられると、なんとなく落ち着きます。

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同じことと違うことのグラデーション

なんでこんなに量が多いねん。ジャガイモ5キロ単位で売られても困るわ!

この調味料は何に使うんや?

この謎の形をした桃はなに?

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チェコに来て5日目ぐらいで、来たスーパーで右往左往。見たことのない食べ物が見たことのない分量で売られている。

 

ようやく見つけた見慣れた食材も、なんかどこか違う

 

サラダ油にひまわりの絵が描かれているのはどうしてだ?

コメが微妙に細長い。

チョコレート味のおかゆ。こんなんおいしいんかいな。

 

残暑を覚悟して渡欧したのに、すっかり秋になっていて、あわてて駆け込んだH&M

 

全部レースでできた下着に衝撃を受け(ちくちくしやんのかね?着心地悪そう)、その売り場の奥にあった秋服売り場。

日本とそんなにかわらんやろと思ったら、テナガザルに着せる服なんかと思うぐらいに袖が長い。着丈と幅はピッタリなのに...。

 

完全に自分の知らないものに出会ったときは、ただただ衝撃を受けるだけで終わるけれど、自分の慣れ親しんだものと似てるけれど違うものに遭遇した時の悲しさというか、さみしさは、結構大きいなあと思いました。

 

何でもかんでも大きかったり。

見たことのないような色の食べ物や飲み物が出てきたり。

ディズニーランドにありそうな石造りの建物が隙間なく並んでいたり。

 

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チェコでは、日本との完全な違いに衝撃を受けることのほうが多くて、悲しさやらさみしさやらを感じることは、ほかのアジアの国にいるときよりは少ないです。韓国で平べったい鉄の箸がうまく使えなかったり、白米にココナッツミルクがかけられたマレーシアの料理が口に合わなかったりしたときのショックのほうが大きいんですね。初めて知った。

 

見覚えはあるけど、知ってるけど、なんか違う。

この「なんか」は、些細なことに見えて、本人にとってはとても大きな違いなのですなあ。

 

 

 

 

 

 

 

思い出に残らない「観光のまなざし」

アーリは、「観光のまなざし」で、観光とは、メディアによって作られた間接的な体験を直接体験として確認する作業のことのことだ、と提唱しています(ちょっとざっくりしすぎてるかも)。

観光というのは直接的な体験、経験であるけれど、その行為のインセンティブになるものは、メディアを通して行われる間接的な、主に視覚による体験だ、ということです。要は、先にメディアを通して情報を得て、そのあとで自分で足を運んでメディアのとおりやなあって確認しに行く、ということですね。

 

 

ここで大事なのは、観光地の本来の姿がメディアが映している通りである必要はなくて、むしろ、観光に来た人がメディアの通りであると確認できたらいいわけです。

ガイドブック読んだり、テレビ見たりして情報を集めて、パック旅行で有名観光地をまわって、「ここがテレビで紹介されてたとこやん、すごい!」って記念撮影して帰ってくるのとかがその典型です。

 

 

観光のまなざし (叢書・ウニベルシタス)

観光のまなざし (叢書・ウニベルシタス)

 
観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

 
モビリティーズ――移動の社会学

モビリティーズ――移動の社会学

 

 

 

悲しいかな、わたしは、この手の、いわゆる「観光旅行」は、あまり思い出に残らないのですよね。いったことはもちろん覚えていますし、楽しかったことには楽しかったんでしょうけれど。そこに行った、という事実しか自分の中に残っていない。

 

案外、下調べに含まれていない、いわば予定外の部分のほうが印象に残っているものです。たぶんそれは、思いがけないところで、思いがけない方向から他者が絡んでくるから。

片手にケータイ、もう片手に飲み物、片足でハンドル操作、片足でガンガンにアクセル踏んで、後部座席を振り返りながら高速道路をかっ飛ばすロシアのタクシー運転手に、必死で前を向けと叫んだこと。

大きいリュックとスーツケースをしょって、東京のラッシュにもまれてたところを助けてくれたガタイのいいおじさん。

空港にむかうバスの中での人生相談会。

ワイヘキ島のバス停で、わたしを韓国人だと勘違いしたまま話し続ける中国人。

 

どこにでもいそうだけれど、でも、いつもと違う場所で出会ったからこそ、その旅を思い出深いものにしてくれる出会い。

「観光のまなざし」には含まれていないところが、わたしにとっては結構重要な部分なのです。

 

 

 「―俺が何度も言ってるようにだなあ。いいか、蒼。『旅』と『旅行』ってのは全然別のものなんだ。おまえはまずそこんとこを、理解しとかにゃあならん」(p。61)

って偉そうに説教たれてる、旅好きな大学生が登場するミステリです。

 


 

 

 

 

 

 

再会のさみしさ

 *若干のネタバレを含みます。たぶん。

*五つ数えれば三日月が、は、台湾出身の作家、李琴峰さんが書いた日本語の小説です。161回芥川賞の候補作にもなっています。よければリンクからチェックしてみてください。

五つ数えれば三日月が

五つ数えれば三日月が

 

 わたしは、昔の友達、というのがさほど多くはない。

小学校の頃の友達なんて、だれがどのクラスにいたかも覚えていないし、たぶん、あってわかるのは数人だ。

中学校、高校の頃の友達はさすがに覚えているけれど、逢いたいなあと思う人は、片手の指が余るくらいである。

 

嫌いなわけではない。その時、その時では仲良くしていたし、卒業式などの節目の別れでも、「また会おうね」と言って別れた。結局あっていない人のほうが多いけれど。

 

長らく会っていなかった人に会うのが、怖いのかもしれない。

その人の変化が、受け入れられないかもしれないから。

 

「五つ数えれば三日月が」は、日本の大学院を卒業し、日本の企業で働く台湾の女性、梅ちゃんと、学部時代に中国に留学していて、梅ちゃんと同じ大学院に通い、卒業後に台湾で日本語教師をしている実桜が、数年ぶりに池袋で再会する話である。

 

たった数年。されど数年。長いのか、短いのか。

どう感じるかは人それぞれだけれど、ある人を取り巻く環境や生活を変えるのには十分な期間だろう。

梅ちゃんと実桜もそうだ。

 

実桜は、台湾人のバツイチ子持ちの男性と結婚して、台湾に住んでいる。連れ子や姑との人間関係に悩むこともたまにはあるけれど、幸せな生活を送っている。表向きは。

梅ちゃんは、ばりばり企業で働いて、それが認められつつある。でも、「ある事情」で結婚できない。

 

お互いに、それなりの生活を送っているけれど、それぞれ自分の生活に、座らない感覚を抱えている。自分が何者なのだろうか、という感覚を。

そして、それをおし隠しながら、再会を喜びながら、内心、互いの距離を測っている。会話の最中にぽろっと漏れる、自分の知らない相手、に驚きながら。

 

再会する者同士は、お互いの記憶が最後に別れた時の記憶で止まっている。小学校の頃の同級生なんて、自分と同い年だとわかっていても、やっぱりランドセルを背負ったままだ。だから、何年もたって再会すると、時間の長さを突き付けられたような気がして恐れおののくのだ。

 

変わらないでほしい、というのはエゴだし、時は人間を変えるものだ。自分の知らない相手の顔があるのは、当然のことだ。

でも、何年かぶりに再会して、相手の変化を思い知ると、なんだかさみしい。

 

だから、昔の友達にはあまり会いたくないな、と思うのかもしれない。

 

 

 

 

空を見上げて思うこと

ある国の名前を聞いたら、その国から来た人が思い浮かぶ。その国にいる友達が思い浮かぶ。

私の中で、そんな国は軽く10を超えるようになりました。

 

いったことのない国なのに、友達の出身の国だからというだけで、自分がふらっと旅行で行った国以上に親近感を感じる国もあります。友達がいなかったら、もう一生行かないだろう国も、友達がいるからまた今度いってみようかな、って思うこともあります。今まで全く興味がなかった国に、友達ができたことで、興味がわくこともあります。

 

その場所に対する思いや思い入れには、人とか人間関係とかっていう要素が大きい。そして、それはけっこう大きな力になりえる。って高校の時に講演に来てくれた人が言ってたのを、帰省する飛行機からAIUを見て、思い出しました。

 

その人は、みんなが世界中に友達を作ることで、世界は平和になる、というお話をしていました。大切な友達がいる国と戦争したいって思う人はいないでしょう、と。

同時に、あなたの友達に、日本という国を知ってもらって、興味を持ってもらって、あなたを好きになってもらえば、それだけで日本という国が戦争に巻き込まれる可能性を減らすこともできるのです、とも。

 

大学に入って、様々なバックグラウンドを持つ人が身近にいるようになって、そんなん甘い幻想や、って思ってた時もありました。一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、違いが気になって、ストレスになって、嫌いになることもあるわ、って。

 

確かに、偏見やステレオタイプを減らしたり、なくしたりするのは難しいです。なくならないんじゃないかなあ、とも思います。

 

でも、分かり合おうとか、歩み寄ろうとかいう姿勢は、伝わる。気にかけてくれてるんやなあってことは、わかるのです、お互いに。

 

ふと、青空を見たときに、きれいな月を見たときに。海の向こうにいるあの人は元気かなあ、って思える人がたくさんいることが、平和につながるんだよ。そう、あの人は言いたかったんだろうな。