本屋のセール

 

旅先で本屋に入るのが好きだ。

日本でも、外国でも、言葉がわかろうがわかるまいが、とりあえずはいってみる。

 

ハリーポッターシリーズを見て、この本どこにでもあるなあと思ったり(私が入ったほぼすべての本屋にあった)、郷土に関する本をぺらぺらめくって楽しんだり。ガイドブックの品ぞろえを見て、この国の人は、こういうところにバカンスに行くのねと思ったり(フランスの本屋はアフリカの保養地の案内が充実してた)、日本の本の翻訳を見つけてちょっとうれしくなったり。

 

旅のお供にと、たまに買うこともあるけれど、たいていは、眺めて、満足してでてくる。

 

が、先日は、祖母と梅田のジュンク堂に行ったときぶりぐらいに爆買いをした。

引っ越しの時にしんどくなるから、極力kindle版を探す私が、紙の本を買った。

 

kindle版がなかったわけではない。

たまたま入った駅前の本屋で、セールをしていたのである。

 

新刊書店がセールなんて、日本じゃまず、ありえない。

そもそも、

「本を読みましょう」「小さいころから読書の習慣をつけましょう」

なんて言うくせに、日本の本は高い!

大多数の親は、どうせよだれでぎっとぎとになったり、破られたり、落書きされたりする運命の絵本などどいうものに1000円も2000円もほいほい払わないだろうし、単行本1冊を買うのに数か月分のおこづかいをはたく子供も稀だろう。本一冊で、アルバイト2時間分の給料か、と思えば、レジと本棚を3往復ぐらいして結局買わないなんてこともざらだと思う。

悲しいことに、学校や地域の図書館が充実しているかといわれると、必ずしもそうではない。

軽減税率も適用外だし、本は、ぜいたく品なのだ。

 

それが、チェコでは本屋がセールをするのである。

テンションが上がって当然ではないか。

絵本が1冊300円以下。英語のペーパーバックが1冊500円以下。チェコ語の小説(読めない)も、1冊200円から、高くても1000円ぐらいまでで収まっている。

普段はそんなに安くはないけれど、セールになった瞬間、気前よく値段を下げてくれる。半額なんてざらだ。

 

そして、そこに、大量のお客さんが詰めかけているのである。

大阪のおばちゃんがブランド物のバッグのセールにたかるかの如く、老若男女問わず多くの人が真剣に本棚をにらみ、そして、嬉々としてたくさんの本を買っていく。

 

ああ、いいなあ。と思った。

 

本にお金を惜しまない、なんてことは、どこに住んでいても、おそらく現実問題難しい。読書では満腹感は得られない。

本が生活必需品でないのは、確かだ。

でも、決してぜいたく品になってはいけないと思う。

月に1冊ぐらいは、おこづかいで読みたい本を買って、そしておやつを食べるくらいのおつりが残るくらいの価格設定であってくれたら。たまには半額セールをしてくれたら。

 

本を嬉しそうに抱えて帰っていく子供と、その子の手を引く母親を見て、なんだか幸せな気分になった。

 

ひとりでいること、だれかといること

移動にかかるお金が日本に比べて圧倒的に安い。

見るものすべてか珍しい。

気分転換。

 

理由はいろいろあるけれど、とりあえず留学に来て旅行ばかりしている。

それは、ヨーロッパに来たからには、いろんなものを見なければ、という強迫観念みたいなものと、外国にいることで引き起こされるストレスを解消したい、という欲求によるところが大きい。

 

ひとりで行ったり、友達と行ったり、友達を訪ねたり。

同じ場所でも、一緒に行く人が違えば感じ方が変わる。

 

それは、人によって見えるものが違うから。

 

わたしは、結構人為的なものに心惹かれる。

それが証拠に、私のカメラロールは、建物だの銅像だの人が作ったものばかりだ。

 

街歩きをしていると、まず、自分の目に入るのは建物。日本ではまずお目にかかれない、ピンクやら黄色やらのパステルカラーの石造りの建物が隙間なくと並んでいる(日本の現行の建築法には間違いなく違反してるだろう)。そこに、彫刻やら紋章やらがついていたり、絵が描かれていたりする。

だれが、何を思ってこの建物を建てたんだろう、とか、ここに住んでいる人は、同幾景色を見ているんだろう、とか、いろいろ想像するのが楽しい。

 

特に、お城に行ったときはそうだ。

お城はたいてい、眺めのいいところにある。

だから、ああ、代々の王様は、こんな素敵な景色を見ていたんだなあ、とか、このお城は、城下の発展を見てきたんだなあ、というふうに思いをはせる。

そのお城で行われている展示を見たり、歴史的な事実の羅列を聞くことは自分にとって特に重要ではなくて、ただ、そこにいたであろう人を想像したり、そのお城が見てきたであろうことを、景色を眺めながらぼんやり考える瞬間が好きだ。

 

プラハ城からの眺め

 

ひとりでいると、自分の世界がすべてだ。誰にも邪魔されないその時間は、自分にとってとても大切で楽しい。

でも、人となにか目新しいものを見に行くのも面白い。

 

もう目が増えれば、自分ひとりでは見えないものが見えるから。

 

例えば、父は、ガイドブックみたいな人だ。

地図も頭に入っているし、目的地の情報も事前に予習している。

だから、私みたいに、想像することはしないけれど、そのかわり、一緒に旅行すると、情報が実体を伴って脳に刻み込まれる。

 

自然、特に水に心惹かれる友人と旅行をすると、私が普段全く目を向けない川や池に注目することになる。

私が川を見るときは、必ず橋や船など、人為的なものとセットだ。

でも、その友人は、水紋や水鳥など、川そのものに目を向ける。

日本とチェコの水紋は違う、と言われた。そんなこと気にしたこともなかった。

 

目が増えると、見え方もその分増える。

そして、次の旅行からは、自分の目も増えるような気がする。

 

 

 

結局どうしてほしい?

「Dobry den」(こんにちわ!)

お店に入ると必ず、店員さんにこうあいさつされる。

日本の服屋さんみたいにめっちゃ話しかけてくるんやろか、やめてほしいな。。。(チェコ語わからないのもあるけれど、基本的に店員さんに絡まれるのが苦手です。笑)

って思ったけど、店員さんは積極的にお客さんに話しかける様子もない。

ひとしきり物色して、何も買わずに帰ろうとしたら、

「 Na shledanou!」(さようなら!)

と大きな声で言われてびっくりした。泥棒とまちがわれたんかと思った。

(現地学生によると、ベーシックな接客らしい。笑)

 

こんな風に、チェコ語で話しかけてくれるとなんかうれしい。

確かにわたしは、ここでは「外国人」で、外の人、ではあるけれど、現地の人と同じように対応してくれたんだなーと思うと、「観光客」じゃなくなったような気がする。

まあ、挨拶以外は、状況と相手の表情とでだいたい何言ってるかあてるゲームだと思ってるけど。

 

お店に入った瞬間に、Hello!って言われて英語のメニューを渡されると、自分が外国人であることを実感させられる。

 

相手が気を使ってくれているのはわかるし、ありがたい。

なんなら自分も、同僚も、ホテルの受付をするときに、明らかに外国人観光客だ、と思われる人には最初から英語で話しかけるようにしていた。英語も日本語も通じない人に対しても、なぜか日本語ではなく英語で話しかけていた。

 

でも、自分がいざそうされると、なんだか疎外感を感じる。数少ないチェコ語の知識と、グーグル翻訳に頼って料理を注文して、なんかよくわからないものが出てくることはないけれど。

 

一方で、英語対応がないことにいら立つ自分もいる。

それは、自分が「外国人」であることが前提のシチュエーションにおいてよく起こる。

 

例えば、移民局。

移民局に用事のある人は、外国人しかいないのにもかかわらず、英語対応がない。電話口で英語をしゃべった瞬間に切られたこともある。

チェコ語なんかチェコでしか話されてないし、移民局に行くのはEU外とかシェンゲン外の人間がほとんどなんだから、英語が話せてもいいのでは?と思ってしまった。

(こんなこと言ってるけど、日本の地方の役所とか警察とか、英語しゃべれなさそうだなあ。。。)

 

矛盾である。

なんともわがままなのである。

 

が、要は、受け入れてほしいな、ってことなのだと思う。

 

チェコ語で話しかけてくれてうれしいのは、自分が「観光客」としてではなく、地元のお客さんとして扱ってもらえている(ような気がする)から。

行政サービスに、英語で対応してよ!って思うのは、外国人だから排除されているんだな、と感じてしまうから。(さすが、積極的に移民は受け入れませんと公言してる国だ。)

 

こういうところは、たぶん、日本とチェコは似てる気がする。

日本に留学に来ている人も同じことを思っているのだろうか。

 

まじでプラハ修道院の図書館きれい!

 

ついつい言ってしまう言葉

 

「なんで千陽ってすぐ謝るの?」

って、かなりの確率でチェコ人の友達に言われる。

 

なんで?って言われても困るし、今まで言われたこともなかったなあ。

って思って、そろそろ二か月である。

 

最初は、通学定期を買うのを手伝ってもらったとき。

わたしのために時間割いてもらって悪いなあ、って思って、Sorryというと、

「なんで謝るの?私は、やりたくてやってるんだよ!」

と言われた。

予想してた答えと違いすぎて、びっくりした。(想定解「いいよいいよー。なんかあったらいつでも言ってねー」)

 

よくあるのは、意思の疎通ができなかったとき。

説明が下手なのと、英語の言葉のチョイスが下手なのとで、思っていることが通じないことが割とある。

こと、日本の文化やらメンタリティーやらを説明するときはいつもそう。私も実はよくわかってないんじゃないかなあと思うぐらいに、うまく伝えられない。

毎回、わたしの説明へったくそでごめんね、っていう意味で、Sorryって言ってたら、

「Don't be sorry, Be better. あなたよく謝ってるけど、謝ってもなんも変わらんよ」

と言われた。(ちなみに、これに対する想定解は、「OK」ぐらいだろうと思ってた)

 

 

今まではこんなことなかったのに、チェコに来てからあまりになんでなんでって聞かれるので、チェコに来る前から知っている、日本語を勉強して5年ぐらいのマレーシアにいる友達に、

「私って、すぐSorryっていう?」

と聞いてみた。すると、

「うん。でも、それは、日本文化だと思ってるよ。すみません、ってことでしょ」

と言われた。

 

ほう。そういうことか。

 

すみません、は、便利な言葉である。が、その便利さゆえに、ほんとにどう思っているかを直接相手に言うことはない。真意をどう相手が解釈するかにゆだねられる表現である。

 

わたしのために時間を割いてくれてごめんね、って言わずに、ありがとう、といえばよかった。

説明下手でごめんね、って謝って済ませるんじゃなくて、わかってもらえるように努力すればよかった。

 

すみません、っていうのは簡単だ。でも、思っていることを口に出すのは難しい。

すみません、っていうのは簡単だ。でも、上手に説明できるようになるのは難しい。

 

まだまだ精進が必要そうである。

 

写真は、地道に手作業で修理されて、維持されてるプラハの石畳。