思い出に残らない「観光のまなざし」

アーリは、「観光のまなざし」で、観光とは、メディアによって作られた間接的な体験を直接体験として確認する作業のことのことだ、と提唱しています(ちょっとざっくりしすぎてるかも)。

観光というのは直接的な体験、経験であるけれど、その行為のインセンティブになるものは、メディアを通して行われる間接的な、主に視覚による体験だ、ということです。要は、先にメディアを通して情報を得て、そのあとで自分で足を運んでメディアのとおりやなあって確認しに行く、ということですね。

 

 

ここで大事なのは、観光地の本来の姿がメディアが映している通りである必要はなくて、むしろ、観光に来た人がメディアの通りであると確認できたらいいわけです。

ガイドブック読んだり、テレビ見たりして情報を集めて、パック旅行で有名観光地をまわって、「ここがテレビで紹介されてたとこやん、すごい!」って記念撮影して帰ってくるのとかがその典型です。

 

 

観光のまなざし (叢書・ウニベルシタス)

観光のまなざし (叢書・ウニベルシタス)

 
観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

 
モビリティーズ――移動の社会学

モビリティーズ――移動の社会学

 

 

 

悲しいかな、わたしは、この手の、いわゆる「観光旅行」は、あまり思い出に残らないのですよね。いったことはもちろん覚えていますし、楽しかったことには楽しかったんでしょうけれど。そこに行った、という事実しか自分の中に残っていない。

 

案外、下調べに含まれていない、いわば予定外の部分のほうが印象に残っているものです。たぶんそれは、思いがけないところで、思いがけない方向から他者が絡んでくるから。

片手にケータイ、もう片手に飲み物、片足でハンドル操作、片足でガンガンにアクセル踏んで、後部座席を振り返りながら高速道路をかっ飛ばすロシアのタクシー運転手に、必死で前を向けと叫んだこと。

大きいリュックとスーツケースをしょって、東京のラッシュにもまれてたところを助けてくれたガタイのいいおじさん。

空港にむかうバスの中での人生相談会。

ワイヘキ島のバス停で、わたしを韓国人だと勘違いしたまま話し続ける中国人。

 

どこにでもいそうだけれど、でも、いつもと違う場所で出会ったからこそ、その旅を思い出深いものにしてくれる出会い。

「観光のまなざし」には含まれていないところが、わたしにとっては結構重要な部分なのです。

 

 

 「―俺が何度も言ってるようにだなあ。いいか、蒼。『旅』と『旅行』ってのは全然別のものなんだ。おまえはまずそこんとこを、理解しとかにゃあならん」(p。61)

って偉そうに説教たれてる、旅好きな大学生が登場するミステリです。