再会のさみしさ

 *若干のネタバレを含みます。たぶん。

*五つ数えれば三日月が、は、台湾出身の作家、李琴峰さんが書いた日本語の小説です。161回芥川賞の候補作にもなっています。よければリンクからチェックしてみてください。

五つ数えれば三日月が

五つ数えれば三日月が

 

 わたしは、昔の友達、というのがさほど多くはない。

小学校の頃の友達なんて、だれがどのクラスにいたかも覚えていないし、たぶん、あってわかるのは数人だ。

中学校、高校の頃の友達はさすがに覚えているけれど、逢いたいなあと思う人は、片手の指が余るくらいである。

 

嫌いなわけではない。その時、その時では仲良くしていたし、卒業式などの節目の別れでも、「また会おうね」と言って別れた。結局あっていない人のほうが多いけれど。

 

長らく会っていなかった人に会うのが、怖いのかもしれない。

その人の変化が、受け入れられないかもしれないから。

 

「五つ数えれば三日月が」は、日本の大学院を卒業し、日本の企業で働く台湾の女性、梅ちゃんと、学部時代に中国に留学していて、梅ちゃんと同じ大学院に通い、卒業後に台湾で日本語教師をしている実桜が、数年ぶりに池袋で再会する話である。

 

たった数年。されど数年。長いのか、短いのか。

どう感じるかは人それぞれだけれど、ある人を取り巻く環境や生活を変えるのには十分な期間だろう。

梅ちゃんと実桜もそうだ。

 

実桜は、台湾人のバツイチ子持ちの男性と結婚して、台湾に住んでいる。連れ子や姑との人間関係に悩むこともたまにはあるけれど、幸せな生活を送っている。表向きは。

梅ちゃんは、ばりばり企業で働いて、それが認められつつある。でも、「ある事情」で結婚できない。

 

お互いに、それなりの生活を送っているけれど、それぞれ自分の生活に、座らない感覚を抱えている。自分が何者なのだろうか、という感覚を。

そして、それをおし隠しながら、再会を喜びながら、内心、互いの距離を測っている。会話の最中にぽろっと漏れる、自分の知らない相手、に驚きながら。

 

再会する者同士は、お互いの記憶が最後に別れた時の記憶で止まっている。小学校の頃の同級生なんて、自分と同い年だとわかっていても、やっぱりランドセルを背負ったままだ。だから、何年もたって再会すると、時間の長さを突き付けられたような気がして恐れおののくのだ。

 

変わらないでほしい、というのはエゴだし、時は人間を変えるものだ。自分の知らない相手の顔があるのは、当然のことだ。

でも、何年かぶりに再会して、相手の変化を思い知ると、なんだかさみしい。

 

だから、昔の友達にはあまり会いたくないな、と思うのかもしれない。